6月20日付「読売新聞」
[論陣・論客]自殺防止対策を急げ 大野裕氏VS清水康之氏

 8年続けて自殺者が年間3万人を超すという事態を受け、自殺防止対策を国の責務とし、遺族支援なども盛り込んだ「自殺対策基本法」が成立した。対策は進むのだろうか。(聞き手・解説部 南砂、勝股秀通)

◆大野裕氏 「心の健康総合的支援を」

 −−自殺者が8年連続3万人を超えた。この現状をどうみるか。
 大野 年間自殺者数が3万人を突破したのは1998年。一挙に対前年比35%も増加し、死亡統計始まって以来の数値となった。現在まで3万人を割ることはないが、警察庁の調べでは、健康問題とみられる自殺が全体の半数近くで、うち3分の2が病苦、3分の1が精神障害となっている。身体疾患の患者の精神的ケアと、精神障害の治療の質の向上が、自殺対策のカギであることが分かる。

 −−経済的問題も要因か。
 大野 3万人を超えた時に急増したのは50歳代の男性で、特に無職者と離職者が多かったため、背景として経済的問題が指摘された。事実、警察庁の発表では、経済・生活苦によるとみられる自殺は、97年の3556人から98年は6058人、03年には8897人へと急増している。
 一方、若者の自殺が少ないのが日本の特徴だったが、近年増加しており、丁寧な分析が必要だ。過労死を巡る裁判や労働安全衛生法の改正で、労働環境が見直されているが、中小企業などの深刻な過重労働は変わっていない。

 −−対策法の成立で、自殺防止は進むだろうか。
 大野 対策を確実にするには、正確な実態把握が不可欠だ。そのために国は、自殺未遂者を対象にした再発防止策の構築など、大規模な多施設共同研究を始めている。対策法は、自殺対策を、国と自治体の責務と位置づけたことで評価できる。法をいかに生かすかは今後の課題だ。

 −−国内の自殺対策で成功している例はあるか。
 大野 全国の数字は一向に改善しないが、80年代以後、地域の取り組みで自殺率を減らした例がある。新潟県松之山町(現十日町市)の先駆的取り組みは有名だ。一次予防として市民への普及啓発活動と高齢者への集団援助、二次予防として精神科医らによるフォローアップなどが行われた結果、65歳以上の自殺率が10年で4分の1になった。
 県別自殺率で常に上位の秋田、青森、岩手の3県も、熱心な取り組みで成果を上げている。活動の特徴は、保健師らを中心に、地域全体が町おこしや村おこしを通じて、住民の健康づくりの一環としてうつ病などの早期発見、支援をしていることだ。

 −−自殺予防は背景にあるうつ病の対策だともいう。
 大野 世界保健機関(WHO)の報告では、自殺者の95%以上が、その直前に何らかの精神疾患になっていたという。ただ、自殺対策とうつ対策がしばしば混同されていることが問題だ。WHOの報告でも、自殺の要因になった精神疾患のうち、うつ病は30.2%でしかなく、アルコール依存症を含む薬物関連障害などが続く。決してうつ病対策だけが自殺対策ではない。
 精神疾患を抱えながら医療施設を受診する人が全体の3割と少ないことも問題だ。心の健康を守って自殺を予防するには、保健師などを中心に住民を啓発することが重要であることがわかる。

 −−何か提言は。
 大野 誰かの役に立つ、ということも含めて「仕事」を喪失することの絶望感が日本人は強いので、人間関係の再構築や経済的セーフティーネットの確保が自殺予防につながる。医学や医療では全く不十分で、社会的要因を考慮した総合的支援が不可欠だ。

◆おおの・ゆたか 慶応大学保健管理センター教授。精神科医。日本認知療法学会理事長。著書は「『心の病』なんかない。」など。56歳。

◆清水康之氏 「実態解明、多分野協力で」

 −−自殺者3万人が定着してしまった。
 清水 中高年男性の自殺が多いことに変わりはないが、追い詰められている人々の範囲が広がっている。昨年は、30歳代の自殺者が4606人と過去最多だったほか、20歳代後半や40歳代前半の自殺者も増えている。かつて自殺者の多くは、リストラされた会社員や中小企業の経営者だったが、最近は、過労や職場での上司のいじめ(パワーハラスメント)が目立ってきた。リストラで人が減り、仕事量は増えた。だが、仕事をこなせずに弱音を吐けば、減点主義の企業では、相談もできずに追い込まれていく。

 −−そのほかの特徴は。
 清水 「介護疲れで高齢の夫が妻を殺して自殺」といった事件が何度も繰り返されている。こうした老老介護の問題をはじめ、精神障害を負った子供の家族、学校でのいじめ、ヤミ金融の悪質な借金取り立てなど、弱い立場の人々が、社会に存在することさえも脅かされて自殺へと追いやられているのが現実だ。もはや自殺は個人の問題ではなく、社会構造化している。

 −−手立てはあるのか。
 清水 社会的な要因で追い詰められた末の自殺は、社会的な対策を講じることで防ぐことができる。しかし、今の国の施策は、対策の体をなしていない。例えば、厚生労働省は、自殺を心の問題としてうつ病対策に取り組んできたが、これは、単に厚労省として何ができるかという縦割り行政の発想でしかない。
 80年代後半から90年代にかけて「自殺大国」と言われたフィンランドでは、10年かけて自殺防止のための国家プロジェクトに取り組んだ。1年目にすべての自殺者遺族に対して、詳細な聞き取り調査を実施し、専門家らによる解析や地域的な分析を行った。変更すべき社会システムは改め、その結果、30%も自殺者が減った。日本でもまずは実態を綿密に調べることだろう。

 −−成立した自殺対策基本法に期待していいか。
 清水 足場はできた。今後は、どういう人々が、どうして自殺に追い込まれていったのか、その分析について精神科の医師だけでなく、介護や法律、我々のようなNPOを含めた多分野の専門家が協力し合う必要がある。さらに警察の協力も欠かせない。子供の自殺を防ぐには、学校からの情報も必要だ。プライバシーや匿名性を守りながら、いかに省庁間の連携を築いていけるかが、極めて重要な課題となってくる。

 −−家族を自殺で亡くした遺族への支援は。
 清水 遺族は、大切な人を失ったショックや悲しみに加え、故人への怒り、自殺を止められなかったという自責の念などに駆られる。人として当然の痛みだが、問題は、自殺に対する周囲の偏見や誤解が、遺族が前を向いて生きていけなくさせていることだ。遺族は、安心して体験を語れる「場」を欲しており、全国各地に遺族が集える場を設ける必要がある。

 −−他人への無関心が自殺を助長しているのでは。
 清水 日本の社会が、命についてどう考えているのかが問われている。自殺者3万人という現実が何も変わっていないのは、自分に関係がないという理由で、見捨ててきただけだ。子供たちに命の大切さを伝えるためにも、社会が命を支えるという意思表示をしなければならない。
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◆しみず・やすゆき 特定非営利活動法人(NPO)「自殺対策支援センターライフリンク」代表。元NHKディレクター。2004年10月から現職。34歳。

 〈寸言〉
◆基本法成立で歯止め期待
 どんな病気も、死者数が交通事故の死者数を超えると、公衆衛生学的に深刻ととらえられるという。自殺はすでに4倍強で、対策は遅く、手ぬるい。
 精神科医の大野氏と自殺者遺族を支援してきた清水氏の意見の差は、それぞれの立場を反映しているが、職域や省域を超越し、社会全体で総合的に取り組まなければ問題は解決しない、という点では一致する。
 今回の法成立には、自殺者遺族らの声が大きく働いたこともあるが、自殺遺児の奨学金申請が、過去7年で8倍にも急増しているなど事態は深刻だ。自殺対策を国と自治体の責務としたことを出発点に、二人が口をそろえる「総合的対策」に向け、社会全体が知恵を出さなければならない。法が、その推進力となることを期待したい。(南)